「のっぺらぼう」の経済から「表情豊か」な経済へ【後編】

SDGs経営やESG経営を標榜する企業が増える今、難解と言われる「西田幾多郎」哲学が改めて注目を浴びています。真に生きるとはどういうことか?を追究した西田。今回は、西田哲学研究の第一人者である京都大学名誉教授の藤田正勝氏を迎え、効率性を追求する合理主義的な思考だけでは辿り着けない、これからの社会イノベーションに必要な視座と哲学について語り合いました。(対談日:2021年12月28日)<前編はこちら

理屈より先に、価値観を。判断より先に、経験を

熊野:前半の最後は、企業の「レゾンデートル」が問われる時代に求められる新しい発想やイノベーションにつながる視座とは?という話題になりました。

先生の最近のご著書「親鸞」を拝読したのですが、私は親鸞こそ、思考にイノベーションを起こした人物だと思うんです。それまで貴族や武家中心だった仏教の大衆化が始まり、その極みが、善人よりも悪人という自覚がある人々こそ救われるという「悪人正機説」という考えなのかなと。正義こそ大事だという常識に囚われない「無義をもって義とす」という親鸞の言葉にも、発想のイノベーションを感じます。

藤田氏:おっしゃる通り、親鸞は当時大きな価値転換をもたらした人物だと思います。それまでは浄土に行けるのは、功徳を積んだり、お寺に寄進したりすることができる裕福な人だけだと考えられていました。しかし、世の中には文字も読めず、仏の教えも知ることができない人や、猟師や漁師など、日々殺生をしなければ生きていけない人もいます。そのような戒律を守れない人々や、社会的に弱い立場にいる人々に目を向けたのが親鸞でした。その思想、その信仰の出発点は、苦しむ人々への共感であったと言えます。コロナ禍で他者との関わりを持てずに一人閉じこもらざるを得ない人や、職を失い生きていくことさえままならない人が多い今の時代にも、親鸞の言葉は多くの人の心に届くのではないでしょうか。

熊野:私は、そこに「豊かな関係性のための豊かな経済」のヒントがあるように思います。効率の話と同様に、強さだけを求めては得られないものがあるはずです。自然とは、完璧なものではなく曖昧で儚い「弱さ」の集合体です。「弱さ」は決して弱みではなくて、つながればどんな環境にも耐え得ることができ、強みになるというような価値観は親鸞が示したと思っています。個々の弱さも救済につながるのだということを「阿弥陀様がそう約束したから」と発想を飛ばして論理や合理性よりも先に価値観を作る。これこそが宗教ですよね。

「関係性が大事」というと多くの方が共感してくださいますが、ビジネスの話になると急に「それはいくらになるのか?」「儲かるのか?」という話になってしまう。私はビジネスにおいても、理屈や合理性よりも先に、まずは価値観を共有していくことが重要だと感じています。でなければ、"儲ける"ことはできても"儲け続ける"ことはできない。

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シュンペーターは「資本主義は、成功すればするほど失敗する」と述べています。既得権益者が変化を恐れ、イノベーションを阻害した結果、資本主義は社会主義化してしまいます。近代的な工業メカニズムにより、民主主義によるイノベーションを起こさずとも効率化によって経済成長できる時期が長く続きました。

この延長に持続可能な未来がないことが自明の理となった今日、SDGsやESGへの取り組みが盛んになっています。かつての産業革命や、深刻化した公害対策のために起きた「技術イノベーション」の駆動力は企業でした。その次の時代には、情報が駆動力となる「市場イノベーション」が起こりました。そして今、社会イノベーションを起こすべき時代に突入していると思います。

とはいっても、まだドアが開いたくらいのところで、未だ、情報が欲望を喚起する大量生産・消費の工業モデルによる「情報社会主義」が多勢を占めています。しかし、与えられた情報の範囲で選択しているうちは、そこには「自由」はなく「選ばされている自由」があるに過ぎません。情報管理社会における社会主義とでも言いましょうか、人間の尊厳はそのような「選ばされている自由」の中には見つけられない気がしているんです。この旧式モデルを引きずっていては、他者や社会の内在化による内質変化の面白さやイノベーションは生まれないと思います。

藤田氏:そういうことを考えるうえで、先ほど挙げられた「無義をもって義とす」という言葉は一つのヒントになるかもしれないですね。親鸞は、人間の側の「はからい」を捨て去ることによって初めて救いが可能になるということを言おうとしたわけですが、人間の側の「はからい」ではとらえられないものがあると考えることは、私たちの日常生活の中でもとても重要だと思います。

私たちは普段、知性によって物事をとらえ、合理的に判断しようとしています。それはそれでとても大切なことで、その意味を認めることに私もやぶさかではありません。しかし、物事を固定化し、それを分析し、その要素を数え上げるだけでは、物事の本質は見えてこず、むしろ隠れてしまうのではないでしょうか。西田幾多郎が『善の研究』において「純粋経験」について語ったとき、まさにそのことを考えていたと思います。

例えば、私たちは今見ているバラを「バラ」と呼び、その色を「赤い」と言い表すことで、バラの本質がとらえられたかのように思いがちですが、そのことによって私たちは、私たちが直に経験しているもの―例えば今目の前にしているバラの、他の花々とは比べることのできない独特の美しさ―をとらえることはできません。むしろ言葉に覆われ、その陰に隠れてしまいます。西田は「純粋経験こそが実在である」と主張することによって、その言葉の陰に隠れてしまう、変化し、流動する生きたものに立ち返ろうとしたのです。そしてこの変化し、流動する生きたものは、それを分析することによってではなく「内から直接に経験する」ことによって初めてとらえられると言います。

私たちがこれまでの思考の殻を打ち破り、それを乗り越えていくためには、物事を外から分析するだけではなく、それを内から直接に経験するということが大切なのではないでしょうか。私はそこにイノベーションのヒントがありそうな気がしています。

熊野:西洋では神は「信じるもの」とされていますが、その西田の考えはまさに「神は信じるものではなく感じるものである」という東洋思想に通ずるものがありますね。日本は天変地異が多い国であり、人と自然の関係性も日々変化していくので、分析する対象というより、感じるものだという考え方になるのでしょうね。分析を繰り返すばかりではいつまでたっても本質にたどり着けない、これは経営にも言えることです。

豊かな関係性に基づく、個人と社会が共立するエコシステムへ

熊野:ちょっと話は変わりますが、私はこれからの時代、新たな価値が生まれるのは生産現場だけではないと考えています。人々の暮らし、生活の場にこそ新たな価値につながるひらめきが潜んでいるはずです。生活の中で生まれたひらめきを生産現場が具現化し、価値にする。その価値に対して資本家が投資をする。そのような、経済的な資本主義ではない社会的な資本主義の時代が到来するはずです。

しかし、現在は寄付のように一時的な投資は盛んですが「社会に投資する」ということに、まだまだ社会全体で取り組めていません。事業においても、根本的な社会イノベーションを起こすためにはSDGsやESGへの対応を本業として行うべきです。

社会に投資できる商品...例えば、AよりBを買った方が森林や海の資源が守られるとか、障がい者の方の笑顔が増えるとか、そのような商品が溢れた社会に投資する資本主義が生まれれば、数年に一度しかない選挙で世の中を変えるというよりも、毎日の購買行動で、毎日誰もが少しずつ社会を良くしていくことが可能になります。

藤田氏:「社会に投資する」という発想はとても大事ですね。従来の企業の在り方は、企業が作りたいもの、売りたいものを消費者に届けるという、企業からの発想に縛られていたのではないでしょうか。しかし、これからは、私たちがどのような社会をつくっていくべきなのか、そこで求められる価値が何なのか、そこから発想していくことが大切になると思います。消費者の方もそういう観点から自らの消費行動を考えていく必要があると思います。

熊野:その通りだと思います。先ほどお話しした南三陸町だけでなく、生活の場で新たな価値が生まれるような地域共生社会の実現に向け、アミタは「MEGURU STATION®」という互助コミュニティ型資源回収ステーションを多地域に展開しています。資源ごみや生ごみをステーションに持ち込むことで住民にはポイントが貯まるのですが、これは自分のためだけでなく、共有ベンチや植樹、福祉団体への寄付など、地域のために用いることができます。また、ごみ出しをきっかけに人との会話が生まれ、それまで家にこもりがちだった住民の方が毎日訪れるようになり、引きこもり問題の解決や年配の方の健康促進につながったというデータもあります。さらに子どもたちが放課後に集まって遊べたり大人の手伝いをできる場所として、多世代交流が盛んになっています。

藤田氏:資源回収だけではない、地域課題解決にもつながっているのですね。

熊野:そうなんです。予防医学的な効果を千葉大学と共同研究していまして、住民へのアンケートでは、このステーションの利用者は、利用していない方に比べて、健康面での意識向上だけでなく「幸せを感じるようになった」「気持ちが明るくなった」という心理的な項目においても「はい」と答える割合が上回ったという結果がでています。

資源問題、少子高齢化、孤独問題など、それぞれの社会課題は互いに密接に関係しています。そのようにすべてがすべてに依存し、関係しているメカニズムを我々はエコシステム社会と呼んでいます。エコシステム社会の駆動力は生活にあり、生活の中に潜むニーズから新たな価値を生み出すことが企業の役割です。企業こそが率先して、他者を理解し社会と一体になる仕組みづくりをしなければならない。今、そのような潮流があると思います。

藤田氏:そうですね。様々な人が参画でき、他者と交わることのできる循環型社会の実現が今強く求められていると私も思います。

西田も、私たちが世界を外から眺め、理解するだけでは物事の本質はとらえられないと考えました。私たち自身が世界の中にいることを理解し、その中から物事を見ていかなければならないと言います。その中で私たちは他者と関わり、協同してこの社会を作り上げていくのです。

自然もまた同様です。自然は単に利用されるものではありません。私たちに喜びを与えてくれるものであり、私たちの生活を支えてくれるものであり、私たちはまたその喜びを自然に返していく、という関係性の中で私たちや自然は生きているのです。このような発想は、西田に限らず東洋の伝統的な思想の中で長きにわたって育まれてきたものです。それを今活かす必要があるのではないかと考えています。

熊野:先ほどの、工業社会では人と自然がコスト化しているという話にも通じますね。自分もその一部であるという視点がなければ、利用してしまう。ビジネスや教育においても、社会は何を求めているのか?ということを自問せずに「個人が立派になれば社会も立派になるはずだ」という考え方や、効率最優先の手法に囚われたままでいると、いつまでも本質にたどり着くことはできません。「個人主義と共同主義は決して矛盾しない」という言葉に、問題解決のヒントが潜んでいるような気がいたしました。本日はありがとうございました。

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対談者

藤田 正勝 氏(京都大学名誉教授)

1949年生まれ。1978年京都大学大学院文学研究科単位取得満期退学。1982年ドイツ・ボーフム大学哲学部ドクター・コース修了(Dr. Phil.)。1983年名城大学教職課程部講師。1988年京都工芸繊維大学工芸学部助教授。1991年京都大学文学部助教授。1996年同大学院文学研究科教授。2013年同大学大学院総合生存学館教授。
『人間・西田幾多郎----未完の哲学』(岩波書店、2020年)、『はじめての哲学』(岩波ジュニア新書、2021年)、『親鸞 その人間・信仰の魅力』(法蔵館、2021年)など、著書多数。

参考図書

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