第5回:社会のイノベーション ―金融資本・工業資本の社会から、自然資本・人間関係資本の社会へ―(2018年11月12日)

2018年度啐啄同時は「共感の時代-信頼が資本になる社会-」をテーマに、新しい時代の価値観や企業に必要なイノベーション力について連載します。



第5回:社会のイノベーション ―金融資本・工業資本の社会から、自然資本・人間関係資本の社会へ―

有史以来、人類は「神権・王権からの、人間の尊厳の獲得」と「飢餓の克服」を希求し、文明社会を築いてきました。18世紀後半から始まった産業・市民革命を起点に、「工業社会」と「市民社会」という形式を前提とした「国民国家」という中央集権型の社会システムを生み出しました。

以降、20世紀では、この枠組みの中で様々な社会のかたちが実験されてきました。民主主義、全体主義、資本主義、共産主義、社会主義、自由経済市場、計画経済市場、福祉社会、寄付社会など...。この意味で、20世紀は「実験の世紀」と言っても過言ではありません。
しかし、ただ1つ、私たち人類が手掛けていない社会のしくみがあります。
2018年の最終回である本章では、この新しい社会の仮説について述べたいと思います。

「ダンバー数」という、イギリスの人類学者であるロビン・ダンバーによって初めて提唱された定説があります。「人間の脳が人間関係を理解できる範囲は、およそ150人が限界である」とするこの説は、文化人類学における新しい発見でした。
現在の狩猟採取社会のアマゾンやニューギニアの部族社会でも、最大150人ほどの部族がほとんどです。また中世社会の戸籍調査でも、約150人規模の集落が多かったことがわかっています。現代に生きる私たちも、頭に思い浮かべることのできる友人は、多くて150人ほどではないでしょうか。

人間は社会的な生物である、というのは周知の事実です。
人間の脳には、言語を発するようになる1歳~2歳の間、ドーパミンが高くなり興奮する部位があります。それは、共感・互助・集合という社会性を感じる部位です。このことからも、人間は生まれついて「社会性」を有していることがわかります。「一人は嫌だ!」というエゴこそが、道徳を生み出したのかもしれません。
しかし人間の道徳性は、しばしば劣化する、ということもまた事実です。
私はこのジレンマの解消を、上記の「ダンバー数」の説をヒントに「人間の脳が認識できる小規模な人間関係であれば、道徳性の維持は期待できる」のではないかと考えています。

小規模な社会モデルの1つの事例となるのが、江戸時代です。
諸説ありますが、江戸時代初期の1600年頃の人口は、約1,200万~1,300万人でした。その後人口増加が続き、1700年頃には2,800万~2,900万人、1750年頃には2,900万~3,100万人程度と言われており、江戸時代中期以降は3000万人前後で停滞しています。また、村落では、基本的に村人全員参加が定義となる寄合と呼ばれる意思決定の会議が開かれ、村の取り決めなどが話し合われていました。つまり、およそ150年前から300年前にかけての日本は、自治が成立した小規模な村落が、自立分散化した緩やかなネットワーク社会だったのです。

ここで注目すべきなのは、この間、人口がほとんど増加しなかったにも関わらず、多くの商品が生み出され、150年の間にGDPが17.4%も増加したということです。加えて、この鎖国社会は、現在の私たちと同じく「資源・エネルギーの制約条件が強い」という条件を抱えていました。いったいなぜ、このような成長が可能だったのでしょうか。

その理由は、工業社会を迎えていなかったことにあると思います。分業化による規模の経済ではなく、家内産業による小ロット(一回の製造時の数量が低い)多品種の商品やサービス群が市場を形成していたのです。

そして何より重要なのは、人間が「資本」であったことです。
なぜなら、商品の質は、職人の優秀さに左右されるからです。そのため芸能や工芸といった文化がボトムアップ方式で盛んになりました。
同時に、自然に対して「もったいない」という価値観が流布していたことは有名です。これは、鎖国により資源やエネルギーの制約があったことが一因していると考えられます。
つまり現代と比較すると、江戸時代は人と自然が「資本」として重んじられていた社会であったと言えます。価格競争ではなく価値競争で社会が豊かになっていったのです。

では、私たちは、再びこのような社会モデルを目指すべきなのでしょうか。

今年の初回「共感の時代-信頼が資本になる社会-」で「温故知新」という言葉の意味を「過去の歴史を熟成・発酵させ、既存の価値観を揺るがし、時に解体することで、新しい社会の礎となる価値観を抽出すること」だとご紹介しました。最終章である今回、江戸時代の例を出したのは、単純に「昔の社会に倣う」ことを奨励するのではなく、ここに新たな社会づくりのヒントがあることをお伝えしたかったのです。

私たち人類は、より安定を求め、飢餓・貧困という<外的環境からの平和>を獲得するため、工業化を遂げました。しかしながら結果として、人間と自然を経費とした大量生産・大量消費で成り立ち、かつ孤独が蔓延する<内的精神の平和>が損なわれた社会を築き上げてしまいました。
(社会問題としての「孤独」の問題については『第2回:商品のイノベーション ―「成熟社会はサービス経済化する。〜価格競争から価値競争〜」―』で言及しています。)

経済的な安定や社会的な安定を「享受する」という受け身の姿勢は、自ずと工業社会と言う「機能」への依存をもたらすでしょう。それは同時に、個人の「幸福」や「個性」さえも、「社会」に委ねてしてしまう恐れがあります。その結果、現代社会は「社会環境が不安定になれば、不安になる」人間が増えてしまったように思います。私たちは、今依存している工業社会が、とても脆いものだということを認識しなければなりません。

世界では既に、地球温暖化による気候変動の激化や、多くの難民の発生など<外的環境からの平和>が脅かされている地域が存在します。このまま人口増加が続き、地球の制約条件がますます顕在化すれば、あと10年前後で、資源・エネルギー・食料の調達リスクの向上が日本にとっても差し迫った問題になることは明らかです。また、人間同士で奪い合ったり、社会的に立場の弱い人間がコントロールや管理・監督を受けたりする、人間の尊厳が失われる社会が訪れる可能性も否定できません。

今、私たちに必要なのは「不安定な環境にあっても、安心できる社会」を創ることです。
これは、どのような社会でしょうか。
私が提案するのは「自立型自治共同体」という小規模な共同体を単位として、それらが高度ネットワーク化された社会です。

この社会の特徴は、以下の通りです。

  • まず、共感や互恵に基づくコミュニケーションが発生しやすい、すなわち、信頼関係が形成されやすい規模で、共同体を形成すること
  • この共同体内で、社会的動機性(生態系の保全や人のつながりなど)に基づく購買行動や相互扶助により、自然資本と人間関係資本が循環していること
  • この共同体が、中央集権による縦割りの管理ではなく、個々人の意思に基づく行動や組織の垣根を越えた活動(自立分散型)により、自治運営されていること
  • さらに、共同体内で経済的安心や社会的安心の確保が難しくなった時は、共同体間のネットワークがサブシステムとして機能すること(「自立型自治共同体」の高度ネットワーク化)

そして、この新しい社会の単位である共同体とは、「地域(自治体)」だけを指すものではありません。所属する人々が人生の大半の時間を費やす対象であり、同時に、資本を価値に変え、社会を形成していく「企業」もまた、この新しい社会変革の主体であり、大きな原動力となるはずです。
この社会創造に向けたヒントとして、本連載では「ステークホルダーとの関係性」や「記憶のトレーサビリティ」を価値とする商品のイノベーション、さらにそのような価値を創出するための組織・市場・情報のイノベーションについて、お伝えしてきました。

特に『第4回:情報のイノベーション ―企業の個性を生み出す「Intelligence」―』で述べた、20世紀後半から始まった情報を中心とした技術革命は、この社会形成の1つの要であると考えます。
ソーラーパネルや3Dプリンター、およびパーソナルコンピューターやスマートフォンに代表されるICTは「自立型自治共同体」内の循環経済圏の自立と、その高度ネットワーク化を実現する手助けになります。ブロックチェーンのような分散型ネットワークの登場もまた、この新しい社会の到来の予兆といえるでしょう。

そんな共同体としての「会社」が増え、同じ想いを持つ会社や地域が関係性を築いていく。
このようなネットワークが実現すれば、強大な武力や大規模な経済力に頼らなくても、地球環境や紛争といった<外的環境からの平和>と、「孤独から逃れて安心を得たい」という人類の本能に基づく<内的精神の平和>を同時に実現できると考えます。
それは、SDGsにも示されている「誰一人取り残さない」社会の実現です。

アミタは今「自立型自治共同体」の実現を、宮城県南三陸町の皆様と共に目指しています。
3.11からの復興として、持続可能な地域創造に取り組む南三陸町。
10月から地元企業を含む民間6社と共同で、"資源循環"と"コミュニティの活性化"を目指す実証実験を行っています。

町内に設置された資源ごみの回収拠点「MEGURU STATION(めぐるステーション)」。
ここへ住民の方々に一般ごみを分別して、持参していただきます。分別に協力した住民には、ICTを用いて「感謝ポイント」を付与。このポイントは、町のみんなの役に立つものや、つながりを感じられるものと交換することができます。また、ステーションには「感謝ポイント」でドリンクが飲めるカフェ、リユース品を交換し合うコーナーなど、人や地域がつながる"きっかけ"となる様々な仕掛けが併設されています。
このこともあって、交流を楽しみに、毎日沢山の住民の方がいらっしゃいます。
自宅で過ごすことが多く、社会との接点を持ちづらかった方の居場所となり、日に数回ごみ出しに訪れる方もおられます。
また、交通手段の不自由な方については、ご近所同士で連携し乗り合い車でお越しになったり、住民の方からスタッフに「何かできることはない?」とお声掛けをくださるなど、"共助"の関係も生まれています。
実証実験を開始して1か月が経ちましたが、既に当初想定していた倍以上の約270世帯の住民の方が、この取り組みに参画してくださっています。(2018年10月末現在)

「ごみ」という老若男女誰もが日常的に関わるものをきっかけとして、普段は関わる機会のない人同士が繋がることができるのです。言い換えれば、これは、人間の「一人になりたくない」という弱さが、新しい人と自然、人と人、人と社会とのつながりを生み出すことの証だと思います。

人類は今、大きな分岐点に立っています。
外的環境と内的精神についての内外のリスクを抱え込んだまま、そのリスクに怯えつつ、あるいは目を逸らしつつ、分断化された工業社会を貫くのか。それとも、その工業社会が生み出す技術に、希望を託すのか。
私は、人間誰もが持つ「孤独から逃れたい」という弱さにこそ、新しい未来を創り出す希望が秘められていると思います。
この本能があるからこそ、人は"関係性"を生み出し、繋いでいこうとします。
そしてできることなら、信頼し合える関係性を紡ぎ、安心を得たいと考えます。

この数値化できない"信頼関係"が、数値化できる信用に代わり、未来を創り出す「資本」となる。それこそが新しい事業の形であり、今年の連載テーマ「共感の時代-信頼が資本になる社会-」です。
そして、事業を通して創り出す未来像として今回、「自立型自治共同体」という共同体モデルと、その高度ネットワーク化という社会モデルを提示しました。

「誰一人取り残さない社会」。この人類共通の希望は、決して実現不可能ではありません。
南三陸町の取り組みに気付かされるのは、この新しい社会づくりの過程には、既に、人を孤独から解放し、幸福をもたらすメカニズムが内包されているという事実です。
無形の"関係性"こそが、希望を形にする資本なのです。

2018年11月12日
アミタホールディングス株式会社
代表取締役会長兼社長 熊野英介




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※2013年3月11日より、会長・熊野の思考と哲学を綴った『思考するカンパニー』(増補版)が、電子書籍で公開されています。ぜひ、ご覧ください。

※啐啄同時(そったくどうじ)とは

 鳥の卵が孵化するときに、雛が内側から殻をつつくことを「啐(そつ)」といい、これに応じて、母鳥が外から殻をつついて助けることを「啄(たく)」という。 雛と母鳥が力を合わせ、卵の殻を破り誕生となる。この共同作業を啐啄といい、転じて「機を得て両者が応じあうこと」、「逸してはならない好機」を意味する ようになった。

 このコラムの名称は、未来の子どもたちの尊厳を守るという意思を持って未来から現代に向けて私たちが「啐」をし、現代から未来に向けて志ある社会が「啄」をすることで、持続可能社会が実現される、ということを表現しています。