未来デザイン談義 -安田 登 氏×熊野 英介 編- vol.1

「エコシステム」をテーマにした2020年の啐啄同時、910月は、能楽師 安田 登 氏との対談形式(全4回)をお送りします。古典から最新のテクノロジーまで、古今東西の身体知に精通し、多彩な創作活動を行う安田氏。
初回(vol.1)は、AIICT等の進化による人間の身体性の変化と、新しい生命観について語り合いました。
(対談日:202087日)

コロナ禍の社会変化とは?

熊野:今回は安田先生と、コロナショックは我々に何をもたらすのか、そして我々はどのような未来をつくっていくべきなのか、についてお話したいと思っています。

最初に少し昔の話をすると、歴史に残る過去のパンデミック(感染症の世界的流行)に、14世紀のペストがあります。ペストは、モンゴル帝国がシルクロードを平定し、貿易活動が活発化したことで、中央アジアからヨーロッパへと広がったと言われています。死の不安を抱えた人々はローマカトリック教会の免罪符(購入することで罪が許されるとされた証明書)に救いを求め、その売上に支えられて、ルネサンスという文化革新運動が起こる。「神を絶対視し人間を罪深いものとする世界観の束縛から、人間本来の精神の解放を求める」という、価値観の転換です。

IMG_0343_re.pngしかし、この免罪符の販売に異議を唱えた神学者マルティン・ルターが聖書のドイツ語訳を完成させる。それが活版印刷によって広まったことで人々は「免罪符の効果なんて聖書のどこにも書いていないじゃないか」と気が付き、ローマカトリック教会から分離したプロテスタント(抗議する者)が生まれ、宗教改革が起き、さらに産業革命へと時代は繋がっていきます。

今回のパンデミックも、このペスト流行と同じレベルで、時代の節目になる出来事だと思うのですが、今、そして今後、社会では一体どのような変化が起きていくのでしょうか?すでに顕在化している状態としては、コロナによってオンライン上のコミュニケーションがより一層加速し、日々の生活の中で、バーチャルとリアル、言い換えると"虚"と"実"の融合が進んでいる感覚があります。

  

身体性の拡張

安田氏:"虚と実"の融合の"虚"の方でいうと、新しい「身体性の拡張」が進んでいると思います。私たちは普段、皮膚の中に囲まれたものを「身体」と認識しがちですが、例えば紙などがあってメモをしながら話を聞く時と、メモを取らない時の思考は全く違います。それは紙やペン、あるいはPCが今や「身体」の一部になっているからです。

Boy_wearing_Oculus_Rift_HMD_re.jpgどのような複雑な概念でも、一度書いたことがあるもの、つまり身体的行為を経たものは「身体的」であると言えます。「身体性の拡張」は"そのもの(ツール)"に習熟すること、別の言い方をするとツールとのコミュニケーションがあることが大事です。

たとえば馬を身体の拡張ツールとして使う場合には、馬の乗り方に習熟しなければならない。リアルで会うことが難しい今、バーチャルな世界を中心に、それが加速していると思います。VRVirtual Reality:仮想現実)の技術革新など、目を見張るものがあります。

ただ、まだ多くの人はHMDHead Mounted Display:ヘッドマウントディスプレイ)に習熟していない。だから、まだ生硬な感じがしますが、ペンを使うようにHMDが使えるようになったら、リアルな世界とVRの世界との区別があまりなくなるかもしれません。いまはそのようなことが急激に進んでいるのを感じます(写真はHMDを装着する子ども)。

熊野:近代は地下資源を駆動力に、蒸気機関車や飛行機などが発明されました。これらは「行動する身体」の拡張ですし、近年はテレビやインターネット、AIArtificial Intelligence:人工知能)など「脳」の拡張が進んでいますね。

今後は、心臓が悪くなったら取り換え、手足が悪くなった取り換え...という医療におけるサイボーグ技術も進んでいくと思いますが、そうすると、人間はどんどん無機質なものになっていく。すなわち、"虚"の方へ進んでいくのでしょうか。

安田氏:確かに"虚"としての拡張は進んでいますが、"虚"だけにいくことはないと思われます。常に両方が関係し合う、それがこれまでの人類の進歩ですしかし、先ほども申し上げた「身体感覚の拡張」によって「リアル」の拡張も進むと思います。HMDが手足のように使えるようになったときに、VR空間も「リアル」になります。私もコロナをきっかけにVRで能の稽古を始めたのですが、VRで人と会ってコミュニケーションしていても、本体である体の怪我や持病は痛いです(笑)。今回のコロナ禍によりVRの世界は本当にすごく進んでいて、私のような特別な技術を持たない人でも、自分でバーチャル空間をつくることができるようになりました。各々が自由につくった空間に、興味を持つみんなが入ってくる。私は今、ダンテの神曲をVRの世界でつくろうと思っているのですが...(笑)でもリアルでお腹は減る、それは変わらないです。

熊野:VRで神曲、、、すごいですね(笑)。

「物理的な身体」は依然としてある一方で、「"虚"の身体」の拡張は進んでいく。その時、人は脳の刺激、脳の快感を良しとするのか、魂の喜びを良しとするのか。また「これは私が"選んだ"のか、"選ばされた"のか?」、あるいは「生命とは、人間とは何か?」といった哲学的な問いが始まる気がします。

    

生命とは何か?

安田氏:そうですね。今後は「AI」も徐々に古くなり、ALifeArtificial Life:人工生命)」の時代に突入していくと思います。Alifeの開発ではこれまで「いかに人間に近しい存在をつくるか」ということが主題でした。しかし最近のテーマは専ら、「生命とは何か」ということです。その暫定的な答えの1つは、「自律性」です。

例えば、会社に新入社員が入ってくる。指示をせず放っておいても、何かはしているはずです。飽きて寝ていることも含めて(笑)。しかし今のAIは、人の指示のもとで動くことしかできない。自律性がないと「何をしようか?」といった問いを、自分で立てることができないんです。

この「自分で問いを立てる」ということが、これからより重要になってくるのではないでしょうか。古代中国の五経のひとつに『易経』という占いに関する書物がありますが易では、問いには正しい問いと、正しくない問いがあるとされています。例えば「これから社会はどうなるか?」という問いは正しくない。これは情報分析からの予測であり、そこに"自分"が入っていない。だから、いくら問いや仮説を立てても、同じところをぐるぐる回るようなもので、いつまでたっても答えに辿りつかない。一方「自分は未来に何をすべきか?」という問いは正しい問いです。自らがどうあるべきか、という自律性があり、しっかりと考えれば、答えを導くことができます。

熊野:よくわかります。特に最近は情報分析や状況分析は上手だが、それで自分はどうしたいのか?どんな未来を作っていくのか?など自分の考えを持つことが、苦手な人が増えている気がしますね。大事なのは「自らの手で求める状況を作りだす」ことです。思考の際、果たして自分は正しい問いを立てられているのか?という視点が重要ですね。

安田氏: AIと人間の、もう1つの違いは「忘却性」です。

世阿弥は、主体性のない芸風を「無主風(むしゅふう)」と言いました。師匠に似ている芸風です。しかし、それではダメだと。それに対して主体性のある芸風を「有主風(うしゅふう)」といいます。「『無主風』から『有主風』へ」の転換、それはなぜ起きるのか。それを考えると、どうも人が忘却をするからではないかと思うのです。

例えば能の稽古を2時間します。ところが、家へ帰って覚えているのはせいぜい15%くらいですね。忘却と疲労によって、人間はだいたいそのくらいしか覚えていない。

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ここでちょっと思考実験をしてみたいのですが、ここに完璧なAIを備え、完璧なプロプリオセプター(固有感覚受容器)を備えたアンドロイドがいるとします。彼に私の師匠の稽古を受けさせます。アンドロイドは忘却しませんから、師匠の謡や動きを完璧にコピーすることができます。しかし彼は師匠と同じにはなれません。なぜなら、今日の師匠と明日の師匠は違うからです。彼は常に「師匠マイナス1」の存在です。なので、「無主風」から「有主風」にはなれません。

※プロプリオセプター(固有感覚受容器):身体の各所にある、関節の曲げ伸ばし・位置を認識する器官

ところが私たちは忘却をします。しかし、また稽古がある。次の稽古で、前回の稽古を再現するには、自分のストックから忘却分を埋めるしかありません。むろん、初めは全然できずに怒られます(笑)。ところが、何年も師匠の真似を続けているうちに、自分の無意識の中に膨大なストックが蓄積されます。その膨大なストックを使って稽古をするので、師匠の動きとは全然違っていながら「おお、それでいい!」と認められるような芸ができるようになる。これが「有主風」だと思います。

ただし、能の世界では「無主風」に至るまででも最低でも10年かかると言われています。「有主風」はさらにその先にあるので、長い時間が必要です。

熊野:なるほど、忘却というと、ネガティブなもののように感じますが、それは生きているからこその能力とも言えます。忘却や疲労、もっと言えばついつい目先の欲望に負けてしまったり嘘をついてしまう、という、ネガティブだけれど人として自然なこと、そうした部分を否定するのではなく、だからこそ生まれるものに目を向けることも大事ですね。人は完璧ではありえない、弱い存在だからこそ、互いに繋がり、社会的な関係性と集合知の中で新たな価値を創造できるのだと思います。
ちなみに、覚えていることと忘れることの違いには、無意識が作用しているのでしょうか。

安田氏:そうですね。無意識のフック(興味関心のポイント)の違いだと思います。また「忘却分を埋める」ストックは、生まれた時からの経験や、身体的も含めた記憶の蓄積です。それが全く同じである人は、誰1人としていません。だからこそアンドロイドに「有主風」はできないんです。

熊野:ありがとうございます。人間を人間たらしめる「自律性」と「忘却性」。意識、心、魂の領域のお話ですね。そこをもっと深堀していきたいです。

次回へ続く 

次回は、無意識と意識の関係から、新たな社会のキーワードとなる「集合知」の生まれ方、そして共時性(シンクロニシティ)へと話を深めていきます(vol.2:9月25日公開予定)。

  

対談者

安田 登 氏

能楽師(下掛宝生流)。東京を中心に能の舞台に出演するほか海外での公演も行う。また、シュメール語による神話の欧州公演や、金沢21世紀美術館の委嘱による『天守物語』の上演など、謡・音楽・朗読を融合させた舞台を創作、出演する。著書多数。NHK100de名著」講師・朗読(平家物語)。

  

参考図書

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